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はじめに

麻疹(はしか)は、古来より度々流行し、多くの人々の命を奪ってきた感染症のひとつで、別名「命さだめ」とも呼ばれ、恐れられてきました。
欧米諸国を始めとする多くの先進国では、すでに徹底した予防接種政策によってこの麻疹を排除しています。日本では、昭和53年(1978)に麻しんワクチンが定期接種として組み込まれ、平成18年(2006)からは1歳児と小学校就学前児に対する2回接種が導入されましたが、現在でも小流行が発生しており、平成19年(2007)の若年層での流行は、記憶に新しいところです。この流行を受けて、正確な麻疹患者数の把握を目的に、平成20年(2008)1月より麻疹患者は全数が国へ報告されることとなりました。さらに同年4月からは、中高生の年齢群も対象となる第3期、第4期の麻しん風しんの予防接種が、定期接種として追加されました(5年間の期限付き)。麻疹は感染力が強く、流行を阻止するためには95%以上の予防接種率が必要とされていますが、9月までの中間報告では、3期、4期ともに全国平均接種率が低迷しており、若年層への予防接種勧奨の難しさが指摘されています。
沖縄県では平成13年(2001)以来、「はしかゼロプロジェクト」活動が進められています。麻疹患者をゼロにする - そのために今、やるべきこととはどんなことなのでしょうか?プロジェクト発足から現在に至るまで、あくなき挑戦を続けられている知念正雄先生にお伺いします。

知念正雄先生 ご略歴
知念正雄先生 沖縄県出身
昭和38年(1963)弘前大学医学部卒 昭和47年(1972)沖縄県立中部病院小児科医長 昭和49年(1974)WHO Fellowとしてロンドン大学にて研修 昭和52年(1977)知念小児科医院開業 役職;沖縄県小児科医会会長 昭和53年~平成7年(1978~1995) 社団法人沖縄県小児保健協会会長 昭和55年~昭和62年(1980~1987年) 第29回日本小児保健学会会頭に就任 昭和57年(1982年) 社団法人沖縄県小児保健協会理事 昭和48年~(1973~) 沖縄県はしかゼロプロジェクト委員会委員長 平成15年~(2003年~) 昭和59年(1984)第6回母子保健奨励賞受賞 平成元年(1989)第22回沖縄県母子保健家族計画大会 県知事賞受賞 平成5年(1993)厚生大臣表彰(母子保健) 平成7年(1995) 沖縄県医師会表彰(学校医部会役員) 平成17年(2005)社会功労表彰(具志川市) 平成20年(2008)保健文化賞受賞(第一生命主催/厚労省・NHK・朝日新聞構成事業団後援)

沖縄県における小児保健医療活動の始まり

戦後、米国民政府の統治下におかれた沖縄県では、医師の数が極端に少なかったため、国費留学のような形で医師が養成されました。私も当時の琉球政府発行の旅券を持って本土の弘前大学医学部に学び、大学院では小児科学と小児循環器学を専攻しました。
昭和44年(1969)に帰郷したころの沖縄県の医療事情は非常に厳しいものでした。昭和39年~昭和40年(1964~1965)には風疹が流行し、400人あまりの先天性風疹症候群(congenital rubella syndrome: CRS)を患った子どもが生まれました。沖縄県はまさに感染症の最前線にあったのです。
昭和47年(1972)日本復帰を経てもなお、保健医療の領域はかなり劣悪な状態にあり、小児医療では肺炎や細菌性髄膜炎などの感染症、新生児未熟児医療、小児心疾患治療管理、急性腎炎など、本土ではすでに減少、あるいは治療体系が確立されていた疾患が、いまだ数多く見られました。そういった疾病に苦しむ子どもたちを多く診るにつけ、子どもたちの健康を包括的に見守っていくための小児保健的活動の重要性を必然的に意識するようになりました。
昭和48年(1973)には、私を含めた3名で、沖縄県小児保健協会の設立について当時の県厚生部予防課に働きかけ、多くの仲間と一緒になって協会を設立し、活動を開始しました。この協会では、市町村からの委託を受けて全県的に乳幼児健診を実施したり、保健関係者の研修会、育児講演会、母子保健大会や子どもフォーラムの開催などの事業を行っています。こうした活動での経験が、「はしかゼロプロジェクト委員会」の発足にも繋がっていると思います。

沖縄県はしかゼロプロジェクト立ち上げのきっかけ

平成11年~平成13年(1999~2001)は、麻疹が流行した年でした。とくに平成13年(2001)には全国的な流行が見られ、死亡例の報告も見受けられました。しかし沖縄県では、先んじて流行が現れ、平成10年~平成11年(1998~1999)に患者数2,034人(全国定点報告例の約5分の1を占める)が報告され、8人の乳幼児が死亡しました。さらに平成13年(2001)4月からの流行で1,565人の患者と1人の乳児の死亡例が報告される事態となりました。当時の流行では、1歳未満児の罹患が多く、県立中部病院では急遽「麻疹病棟」を準備して重症児を収容しました。多数の子どもたちがICU管理されていましたが、そのような集中的な治療を施したにも関わらず、また麻疹はワクチンによって予防しうる感染症であるにも関わらず、9人もの幼い命が奪われてしまったことに、私たち小児医療関係者は大きなショックを受けました。


平成13年(2001)4月のある朝、私の診療所に隣接する県立中部病院小児科(当時)の安次嶺馨先生よりお電話を頂戴しました。「先生、今のはしか流行を何とかしなければならないのではないか」。これは重症児の治療に日々懸命にあたりながら、子どもたちの死を直に目にしてきた病院勤務小児科医の悲痛な叫びでした。この一言は、当時開業医として、毎日の外来診療に精一杯であった私にも大きな衝撃を与えるものでした。
私は、直ちに、旧・具志川市(現・うるま市)に公費負担による1歳未満児への麻しんワクチン接種を提案しました。そして「電光石火の市長判断」により、生後6カ月~12カ月未満児に対する接種が6カ月間の期間限定で実施されました。この公費負担による乳幼児接種はすぐに周辺の16市町村に波及し、対象者の43.9%にあたる3,755人の1歳未満児への接種が行われました。この様な大規模な乳児期接種が市町村事業として実施されたことは日本においては初めてのことであり、まさに画期的な事業でした。この乳児期接種によって、麻疹患者は9月に入って顕著に減少し、流行の終息につながりました。
「二度とはしかによる犠牲者を出してはならない、子どもたちのために何とかしたい。」という思いが「はしかゼロプロジェクト」の起点となりました。

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